gauloisの日記

随想その他

赤ずきん

赤ずきんが、通りかかった貴族の赤い帽子に憧れたところに父親に対しての情愛から早く大人になりたいと願う思春期の女の子の欲望が投影されている。赤という色が処女喪失や、月経の始まりを表しているのか、ただ権威の色としての表象にすぎないのかどうかは定かでない。また、狼に誘惑される描写から父親にそう思われたいという願いが見てとれる。少女は、成長の過程で、父親に対して強い憧れを持つとされていた。その時期、少女は父親に愛されたいと願い、無意識のうちに母親から父親を奪いたいとさえ思うもの。オイディプスの女の子版ってことだね。


しかし同時に、狼に食べられそうになったとき狩人が助けてくれたが、やはり救ってもらいたいとも思っており、この狩人にも父親を投影しているともとれる。こういった表現から、思春期の女の子特有の複雑で揺れる心理が読みとれる。赤ずきんは幼い女の子の物語だと捉えられがちだが、大人になる過程の少女の葛藤を情愛と結びつけて描かれている話なのである。

そこにあるから、ある

 「そこにあるから、ある」

ただのトートロジーだけど、よく考えてみると世界のあり方が見えてくるかもしれないので、何かしら力添えできれば幸いです。

 

非常に抽象的な話なので、よくわからないという人はつまらなく感じるだろうと思う。予めご容赦。

 

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急いでいる時に限って信号機に引っかかる。こういった経験は誰しもあるはずだ。これはおそらくセレクティブメモリの働きであろうが、今回は心理学的内容ではないため現象的に見ることにする。

私がここで言いたいことは、「物事がそうであるのは、それが最善であるからだ」 つまり、この世界の存在全てについて、そこにある所以が必ず存在する。あるべくして存在しているのだ。もちろんここでいう存在とは、本や林檎など以外にも形而上的な意味を多分に含む。

少し押し拡げると、人間が生まれたことも、雨が降るのも、病気が存在することも、信号機に止められることも、全てに理由がある。私はこの、世界に働く内的な力の存在を信じているし、利用していきたいとさえ思っている。

 

もしも、ただのポジティブシンキングだと思った人がいたらそれはとんだ思い違いだ。先に挙げた力の存在を信じるとすれば、「死にたい時に死ね」とも言えてしまう。何故なら、人が死ぬとき、それはその人が死ぬのに最善な状況であるからだ。もし何らかの瑕疵により死ぬことができなかったならば、まだ死ぬべきときではないだけのことである。

 

また、人の行動が全て神によって決められていると言っているわけでもない。ハイデガーが下方に開かれた弧と矢印で表したように、われわれは可能性への自由に開かれている。最善な状況とは、一人一人異なるし刻一刻と形を変えるものだ。野心や努力によって、如何様にも形を変えることができる。ただ、それにつきまとう結果はその時々によって最善なものが表面にあらわれてくるだけのことである。

 

巖谷國士-「シュルレアリスムとは何か」より第二章-メルヘンとは何か 続き

(続き)

 おとぎばなしでは人間の心理のこまかいところが反映しないように語られている。なぜなら、おとぎばなしは個人が作ったものではないから。

 おとぎばなしと似たものに、神話というものがある。これは天地に起こったことだったり、民族とか国の発生(起源)なんかを書くことが多い。日本の「古事記」に書かれているお話もほとんどが神話でしょう。それは根源を説明するためのお話であるわけだから、事実だけを書く。

 おとぎばなしは神話などとは全く別物。まず、主人公に名前がない。シャルル・ペローの「サンドリヨン」というお話がある。日本ではシンデレラ、なんて呼ばれているね。これはもともと、フランス語でサンドリヨン(Cendrillion)というと「灰まみれの少女」という意味。英語になおすときに、ash(灰)だとへんな感じがしたのかな。cinder(燃えかす)から派生してシンデレラ(Cinderella)としてしまったみたいだ。もちろんシンデレラは名前ではない。家でいじめられて、灰にまみれている女の子ならだれでもいい。

 おとぎばなしって聞くと、わりと北欧やヨーロッパのイメージがある。特に北欧ではおとぎばなしを研究する伝統があるらしい。あっちのほうは夜が長いんだ。それと関係があるのかな。

 おとぎばなしには名前が出てこないと言った。地名や名前、つまり固有名詞があらわれない。おとぎばなしでは、語り出しからして時代も場所も決めていない。

 「むかしむかしあるところに」なんて言いますよね。時間も場所も決めないではじめちゃうんだから、ほんとうに不思議な文学だ。しかしそれが魅力でもある。

 もうひとつ、おとぎばなしと似たものに寓話がある。「アリとキリギリス」なんかが分かりやすいから例として話します。アリは毎日一生懸命に働くけれどキリギリスはいつも怠けていてあとで損をする、ってお話でした。寓話はほとんどの場合、教訓を与えることを目的とします。

 しかし、おとぎばなしには本来、教訓などありません。17世紀のフランスでは教訓をつけることが流行っていたんで、ペローは伝統にしたがって付け加えただけ。それも、詩というかたちで。そういう意味で、やっぱり寓話とおとぎばなしは違うんですね。

 ここまで読んで、少しはおとぎばなしのことが分かってきたと思う。作者がいなくて、自然に生まれ、世界のあらゆる国に似たようなお話があり、時代もわからない、場所もわからない、主人公の名前すらわからない。それにもかかわらず、読むとなぜかどこかで聞いたことのあるような感じがする。懐かしいような、何か大事なことを教えてくれているような感じがする。

 そりゃそうです。どこの国の誰ともわからない人たちが仲間内で語ったお話が、形を変え何百年もかけて現世に伝わっているのだから。

 久々に絵本でも見てみようかな。これをきちんと読んだ人なら、おとぎばなしへの見方が変わるよ。きっとね。

巖谷國士-「シュルレアリスムとは何か」より第二章-メルヘンとは何か

 メルヘンとはもともと、ドイツ語のメールヒェン(Märchen)を指して「お話」という意味。日本語では、少女の好む夢のような世界をメルヘンと呼ぶ。しかし、ほんとうの意味ではない。きれいな日本語になおすなら「おとぎばなし」。

 「メルヘン」は、とてもフワフワしていて優しい気持ちになる単語であるけれど、もともとは子どものためのお話ではなかった。というより、17世紀ぐらいまでは子どもが存在していなかった。


 どういうことかと言うと、私たちがいま語ったり見たりしているような子どもはいなかったのだ。でも「小さな人間」は存在した。つまり、大人の小型として、子どもが存在していたのだ。

 たとえば15〜16世紀の絵画を見てみる。ピーテル・ブリューゲル「子どもの遊戯」では、村で遊んでいる子どもの光景が描かれているけれども、その子どもたちが着ている服は大人のお古なのだ。袖を切り取って着ている。


 児童文学あるいは童話についてもこれと似たことがいえる。「監獄の誕生」「狂気の歴史」で知られるミシェル・フーコーのことばを借りるなら、"学校制度が子どもをつくった"のだ。つまり、システムのほうが先に生まれているということである。


 ここで、「おとぎばなし」の定義を確認する。とぎ(伽)は、暇なときに相手をすること・朝まで添い寝をすることをいう。昔は、貴族に伽をするための女官がいたという。「夜とぎ」となると、多分にエロティックな意味あいにも使える。夜の慰みってことだね。


(続く)

 

紅茶

 さいきん、いやに心がどきどきしていて、なんだか落ち着かない日々を送っていた。本を開いても30分経つと文字が浮かんでは逃げていく。ああこれは、と思い、あしたは朝早く起きて出かけよう、そう思った。

 いつもより早い電車に乗り込み、目的地に着くと、慣れない動作で腕時計を確認する。講義までは充分に時間があるな。さて、と歩き出す。東京の人は何かとこわいので、私はいつもやわらかいものを纏って人の間を縫っていく。

 都会の騒ぎに似合わない、堅苦しい扉を押して店内に入る。今日は貸し切りか、と思いながら窓際の椅子を引く。注文は電車の中で決めていたのでメニューは見ない。

「ハッピーバレーはありますか」

「申し訳ございません、今年は入荷が遅れております…」

「そうですか。では、似たものをください」

 そう言って出てきたのが、アンブーシアというお茶。

 ハッピーバレーは夏摘みのものしか飲んだことはないのだが、まるで深く煎ったヘーゼルナッツのような、独特の香ばしさが楽しめる種類である。私はこのお茶が好きなのだ。

 それに対してこのアンブーシア(これも夏摘み)は、すっきりとしてはいるのだが、風味がパリッとしていて、まるでウーロンに近い後味のように感じられた。例えるなら、小春日和にて俄かに吹く冷たい風のよう。あたたかさに鋭利な香りが突き刺さる。なかなか悪くない。

 そろそろハッピーバレーが入荷されるということなので、また近いうちに来店するつもりだ。そのとき、またこうして文章にしよう。私は非常に忘れっぽいのだ。