12月20日
赤ずきん
赤ずきんが、通りかかった貴族の赤い帽子に憧れたところに父親に対しての情愛から早く大人になりたいと願う思春期の女の子の欲望が投影されている。赤という色が処女喪失や、月経の始まりを表しているのか、ただ権威の色としての表象にすぎないのかどうかは定かでない。また、狼に誘惑される描写から父親にそう思われたいという願いが見てとれる。少女は、成長の過程で、父親に対して強い憧れを持つとされていた。その時期、少女は父親に愛されたいと願い、無意識のうちに母親から父親を奪いたいとさえ思うもの。オイディプスの女の子版ってことだね。
しかし同時に、狼に食べられそうになったとき狩人が助けてくれたが、やはり救ってもらいたいとも思っており、この狩人にも父親を投影しているともとれる。こういった表現から、思春期の女の子特有の複雑で揺れる心理が読みとれる。赤ずきんは幼い女の子の物語だと捉えられがちだが、大人になる過程の少女の葛藤を情愛と結びつけて描かれている話なのである。
そこにあるから、ある
「そこにあるから、ある」
ただのトートロジーだけど、よく考えてみると世界のあり方が見えてくるかもしれないので、何かしら力添えできれば幸いです。
非常に抽象的な話なので、よくわからないという人はつまらなく感じるだろうと思う。予めご容赦。
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急いでいる時に限って信号機に引っかかる。こういった経験は誰しもあるはずだ。これはおそらくセレクティブメモリの働きであろうが、今回は心理学的内容ではないため現象的に見ることにする。
私がここで言いたいことは、「物事がそうであるのは、それが最善であるからだ」 つまり、この世界の存在全てについて、そこにある所以が必ず存在する。あるべくして存在しているのだ。もちろんここでいう存在とは、本や林檎など以外にも形而上的な意味を多分に含む。
少し押し拡げると、人間が生まれたことも、雨が降るのも、病気が存在することも、信号機に止められることも、全てに理由がある。私はこの、世界に働く内的な力の存在を信じているし、利用していきたいとさえ思っている。
もしも、ただのポジティブシンキングだと思った人がいたらそれはとんだ思い違いだ。先に挙げた力の存在を信じるとすれば、「死にたい時に死ね」とも言えてしまう。何故なら、人が死ぬとき、それはその人が死ぬのに最善な状況であるからだ。もし何らかの瑕疵により死ぬことができなかったならば、まだ死ぬべきときではないだけのことである。
また、人の行動が全て神によって決められていると言っているわけでもない。ハイデガーが下方に開かれた弧と矢印で表したように、われわれは可能性への自由に開かれている。最善な状況とは、一人一人異なるし刻一刻と形を変えるものだ。野心や努力によって、如何様にも形を変えることができる。ただ、それにつきまとう結果はその時々によって最善なものが表面にあらわれてくるだけのことである。
巖谷國士-「シュルレアリスムとは何か」より第二章-メルヘンとは何か 続き
巖谷國士-「シュルレアリスムとは何か」より第二章-メルヘンとは何か
「メルヘン」は、とてもフワフワしていて優しい気持ちになる単語であるけれど、もともとは子どものためのお話ではなかった。というより、17世紀ぐらいまでは子どもが存在していなかった。
どういうことかと言うと、私たちがいま語ったり見たりしているような子どもはいなかったのだ。でも「小さな人間」は存在した。つまり、大人の小型として、子どもが存在していたのだ。
たとえば15〜16世紀の絵画を見てみる。ピーテル・ブリューゲル「子どもの遊戯」では、村で遊んでいる子どもの光景が描かれているけれども、その子どもたちが着ている服は大人のお古なのだ。袖を切り取って着ている。
児童文学あるいは童話についてもこれと似たことがいえる。「監獄の誕生」「狂気の歴史」で知られるミシェル・フーコーのことばを借りるなら、"学校制度が子どもをつくった"のだ。つまり、システムのほうが先に生まれているということである。
ここで、「おとぎばなし」の定義を確認する。とぎ(伽)は、暇なときに相手をすること・朝まで添い寝をすることをいう。昔は、貴族に伽をするための女官がいたという。「夜とぎ」となると、多分にエロティックな意味あいにも使える。夜の慰みってことだね。
(続く)